写真を撮ろうとする時撮った時撮った後 私が感じていることいないこと
私は今まで長年様々な写真を撮り続けてきて、それら「私が撮った」写真を、ただ私一人だけのものだと感じた事が一度も無い。
「私が撮った」結果できた画、確かにそれは私のものではあるが、だからといって私一人だけのものだとは感じられない。
これはうちの猫を撮った場合、庭の花をとった場合、その他景色や建物だけを撮った場合でも、程度の差こそあれやはりそうなのだが、何と言ってもこの感じが強いのはいわゆる「モデル撮影」の場合だ。
ゆえに私は、自分の人物写真作品に対しては「~さんと撮影した」「~というモデルさんとのコラボレーションで…」という言葉とともに言及する事が多い。
私一人を主語に置いたとしても、せいぜい、「~さんを撮影させてもらった」というくらい。
これは、そういった思想や主義主張を持っているからそうしているのではなくて、元々そう感じているからそれを言葉にしているだけだ。
「被写体」という言葉も作品に関しては使わない。なんとなく違和感がつきまとうからだ。
おそらくは「撮るものと撮られるもの」という二極対置に対して、避けたいという気持ちが強いのだと思う。
「モデル」という言葉にもしっくりこない感じはあるので、被写体と呼ぶ理由も判るのだけれど、「モデル」の方がどっちかというとまだ自分にとってはマシな感じがする。
まあ、言葉の選択だけのことなので、これはもう、感じを表す言葉をどう感じるか、の次元の事だから、そんなに重要ではないが。
写真は時間という連続性の中で生きているものから時間を剥ぎとり断片というか切片に切り取ってできている。
そうやって切り取り、それを生きていた人やものから奪うことはある意味で写真の本質だ。
切り取らなくては写真はできない。
奪う事を積極的に肯定すれば、そこで「生花」的あるいは「標本」的な作品化ができるだろう。
対象の一部分を切り取り、またはすべてを或る切片に押し込めて画を創るという意識。
別の見方をすればこれは、写真という行為が奪う事なのではなくて、連続性たる時間の中には本来は無かったはずのある特定の断片化された”瞬間”における何ものかの有り様というものを生み出し、むしろ仮想的に付加する事こそが写真の営みであるとする立場、と言い換えられるかもしれない。
私は相手の同意なし、または同意があいまいなままに相手から何かを得る事はどうも苦手だ。
そこにおける写真の意義をいくら感じても、自分の側からだけの動機付けでもって連続性の中に手を差し込む事ができない。
そこで、共作というかたちになる。
奪う事が避けられないから、それを同意のもとに差し出されたものを受け取るというかたちに変えている。
どちらであれ、仮初の死を死ぬことによって仮初の生に虚数の価値を与えるという写真の意味は何も変わらないのだが。
ある人がいて、その人自身の持つなにがしかを自分の影に分け与えてどこかの時点でそれを切り離し、その影が何ものかに焼きつく事で生まれる画に自己表現を託そうとする、そしてまた、その影を受け取ってそれにまた自分の中のなにがしかを仮託して画を創り自己表現としようとする人がある。
その影を生み出す時間=光の中で、そういったやり取りが繰り返され、いくつかの画ができる。
それをもって写真作品作りとしたい、というのが私の希望だ。これもまた、主義主張ではなくて感覚的な好みである。
こういった感じは、私の写真作品づくりと一体化している。
どちらが先とも言えないくらいに。
そしてまた、「モデル撮影」ならば主体は私とモデルさん(達)なのだが、その行為はその日その時の状況の中にあり、それもまた作品を生み出すものそのものだ。
撮影現場だけのことをいっても、その日の光と空気…関わる程度の差こそあれ、それらのすべて。
さらに言えば、そこに至る歴史の総体も含めたすべての結果だ。
もちろん、世の中のすべてがそうなのだけれど、まさに写真もそうなのだ。
その中に「創る意志」を持った私とモデルさん(達)がいて写真ができる。
意志を持った主体の共同作業でできるものであり、かつ、様々な状況の連鎖と複合の中でできるものである。
1つの写真はそういう二重の意味で私だけのものではない、そういう感覚。
自分の感じていることを言葉にしてみるとこんなふうになる。そうしてみると、自分の振る舞いがなぜそうなのかやっと理解できる。
その日その場ありのままの光でただ静かに撮る事を好む。
レフを入れるにせよそっと静かにちょっとだけ。
電気光で空間を切り裂くのではなく、蝋燭をそっと灯す。
セットアップならモデルに状況や狙いを話しつつ、物を選びつつ一緒に舞台をつくって。
後処理は整えるだけ、レタッチはその日その場でやろうとして出来なかった事を補うだけ。
どうあるべきか、はどこにも無くて、ただ自分の感覚に逆らいたくないだけだ。
そして、これらに敢えて逆らってみるのも必要な事だと今は思っている。
どうやっても基本的な意識や好みは変わらないとはっきり思えた今は、安心して新しい表現手段を探していけると感じている。
今はまだ、自分のものにした表現のカタチが少なすぎる。
差し出されたものを、いろんなカタチで、差し出した人やその時の空気によりよく合ったように、私自身のより好むように、人に向かって「すごく良いのができたから見てみて!」と差し出せるように。
自分を豊かにしていく。
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